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2014年6月16日月曜日

登場人物を死なせるときに気をつけたいこと

 つい先日、「不幸な出来事を書くときに気をつけたいこと」という記事をブログに投稿しました。今回は、その続きのような記事です。



 私は以前、こんな話を耳にしました。
 とある小学校の、とある学級では、クラス全体でリレー小説をしている。基本的に何を書いてもいいが、一つだけしてはいけないことがある。  それは、「登場人物を死なせないこと」。

 ちなみにこの取り決め、クラスの担任の先生が決めたそうです。
 この話を聞いたときに私が思ったことは、「クラスでリレー小説とかしたくないなあ」でした。「死なせない」取り決めとか、ぶっちゃけどうでも良かったです。
 とはいえ、今回は登場人物の死についての話をする予定なので、そちらを掘り下げていきましょう。

 先の話で「登場人物を死なせない」取り決めがされた理由は、どうやら「嫌いなクラスメイトが登場させた嫌いなキャラクターを死なせないため」だったようです。クラスの空気が悪くなることを恐れたんですね。

 まあ「死なせ」られなくても、そのリレー小説を利用した嫌がらせはあったんじゃないかと思います。クラスでリレー小説なんて、悪い結果しか想像できません。そのクラスがみんな本好きで、みんな仲良しなら話は別ですが、そんなことはなかったでしょうし。

 しかしその一方で、私は、その取り決め自体は悪くなかっただろうと思います。「死」という分野は、小学生のリレー小説で軽々しく取り扱っていいものではありませんから。

 「死」は、この世界の多くの人が、最も不幸なことだと捉えている事象です。
 「死ぬより辛い」とか「死んだほうがマシ」という言葉も、死が最上級に不幸なことだからこそ出る言葉です。それに「死んだほうがマシ」と言った人が現実的な死に直面すれば、おそらく大半の人は「死ぬよりはマシだった」と思うでしょう。

 それだけ不幸な出来事だからこそ、多くの物語でも「死」を取り扱っています。かくいう私も、これまでに書いた物語の中で、人を9人と猫を1匹死なせました。

 もちろん軽々に死なせたつもりはありません。ありませんが、やはり……

 私は、人の死がどういうものなのか、まだよくわかりません。医師のロス先生が書かれた「死ぬ瞬間」は知っていますが、それを真に理解できているかと言うと、理解できていないように思います。

 人が自分の死を知ったとき、何を思うのか。自分の親しい人が知ったときの悲しみは、どれほどのものなのか。それが私には、わかりません。

 私が物語の中で人を死なせるとき、大抵はその死に密接した、伏線を引いています。つまり、どんでん返しです。
 死ぬと同時に大きなどんでん返しがあれば、読者はそのどんでん返しに対する感動と、死に対する情動を混同します。それによって、深い作品だったと思わせています。

 意識して、したことではありません。良い作品を作ろうと思うと、自然とそうなっていたんです。そのことに気づいたのも、最近のことです。

「人の死に正面から向き合った作品を、私はまだ書いたことがない」

 伏線の回収に夢中で、気づけませんでした。あるいは、登場人物をわざと死に鈍い性格にすることで、無意識に避けていたのでしょうか。

 この前、死にショックを受ける主人公を書いたとき、その描写の薄っぺらさに愕然としました。今までなら見逃していたかもしれないその薄っぺらさにやっと気づけたのは、その少し前に人が死ぬ作品を読んでいたからだと思います。

 何度も書き直しました。それでも、納得の行くものにはなりませんでした。

「私は、人が死ぬということを何もわかっていない」

 人が死ぬということは、本当ならそれだけでも物語足り得るほどの、大きな出来事なんです。どんでん返しなんて要らないんです。でも私は、それで人を感動させられる自信はありません。

 どうしようもないことですし、それが私、泉野戒の作風なんだと言えばそれで済むことなのですが……

 それなら私は、私の作風は、人の死に正面から向き合ったものでありたいと思います。

 きっと私は、これからも、小説の中で何人もの人を死なせると思います。「死」を上手く書けないから「死」を書かないという選択肢は、私にはありません。それは向き合っていることにはなりませんし、そもそも自分の作品に縛りをつけるつもりは、私には毛頭ありません。

 私がすることは、私が書く「死」を、少しでも現実のそれに近づけることだけです。そしてそれこそが、私が作家として成長する一歩になると思っています。

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