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2014年6月26日木曜日

ラノベの主人公は、なぜ鈍感になってしまうのか

 ラノベの主人公は鈍感なことが多いというのは、周知の事実だと思います。
 特に、ラブコメの主人公はほとんどが鈍感で、ヒロインの気持ちに気づけません。これはなぜでしょうか?

 例えばラノベでよく使われるヒロインの性格として、俗に「ツンデレ」とか「クーデレ」とか呼ばれるものがあります。知らない方のために簡単に説明すると、普段は主人公に対して反抗的だったり(ツンツン)冷たかったり(クール)するヒロインが、ふとした折に主人公への好意を覗かせる(デレる)、というものです。
 つまり、「内心は主人公が好きだけど恥ずかしくて素直になれない」ということで、ここにこそ萌え要素があるわけですが、ここで一つ問題があります。
 主人公がヒロインの好意に気づいてしまったら、ツンデレがツンデレでなくなる、という点です。

 主人公がヒロインの好意に気づく→
 ヒロインが内心を隠す必要がなくなる→
 ヒロインがツンツンしなくなる→
 デレだけが残ってバカップル化する
 ……と、いうわけです。

 ラノベの世界では、すでにゴールインしつつあるバカップルよりも、お互い好きだけどすれ違いばかりでなかなか付き合えない、という状況のほうがウケが良い傾向にあります。
 こういったすれ違いのためには、主人公がヒロインの好意に鈍くないと、成立しません。

 私自身、数え切れないほどのラノベを読んできた中で、鈍感な主人公に飽き飽きしているところがありました。自分が小説を書くなら絶対にそんなテンプレ主人公にはしないぞと息巻いていたものです。
 しかし実際書いてみると、結局は、鈍感な主人公になってしまいました。というか、そうしないと話が繋がらないんですよね。テンプレもなかなか侮れません。

 どうしても鈍感じゃない主人公を出したい場合は、ツンデレ・クーデレをヒロインにするべきではないと思います。言い換えれば、すれ違い系以外のラブコメを書かなくてはいけません。
 カップルの二人がひたすらイチャイチャするパターンもアリと言えばアリですし(ただ、読者が主人公に殺意を覚えるかも)、ひたすら求愛するヒロインと逃げる主人公という図式も、それはそれで昔から使われてきた良いパターンです。

 ツンデレヒロインと女心のわかる主人公を一緒に出す方法もあります。ツンデレを、精神レベルの高いツンデレにすることです。

 普通のツンデレは、読者がすぐにツンデレだとわかるパターンが多いです。
 そうじゃないと読者が萌えられないからですが、これもまた、主人公が鈍くなる原因の一つです。読者がツンデレだと気づけるのに主人公がそのことに気づかない、という話にするから、主人公が鈍感になってしまうのです。

 しかし、もしも読者ですらツンデレだと気づけないのであれば、それは主人公を鈍いとは言えなくなります。

 これはかなり難しいことです。なにせラノベの世界では、女の子はみんな主人公を好きになるという大原則のようなものがあって、読者もその前提で読み進めるからです。その先入観すら打ち破るほどの、ヒロインからの主人公嫌いアピールが必要になります。
 また仮にこれがうまくいったとしても、それだとただの性格の悪いヒロインになってしまいます。そんなヒロインが登場する小説を読みたいと思いますか? 正直、あまり良い作品になりそうな気がしません。

 これでうまくいったパターンの話も、たくさんあります。しかしいざそれを書こうと思えば、問題があります。

 一番の問題は、このツンデレは一度しかデレられないというところです。
 一度でもデレてしまえば、鈍感じゃない主人公はヒロインの気持ちに気づいてしまい、ツンデレではなくなります。ですからその一度きりのデレに、すべてをかけなくてはいけません。
 どのシーンで、どんな風にデレさせるか。あからさまにデレるのも、それまでのキャラと食い違ってしまうので良くありません。本当にシビアで、難しい問題になると思います。

 更にもう一つの問題――というより、技能が問われるのは、ラストのツンデレネタばらしまでの間、いかに読者を飽きさせないか、というところです。
 ヒロインが主人公のことを嫌いでも好感が持てるようにするとか、ラブコメ以外のテーマをメインに置くとか、色々な方法がありますが、言うは易し行うは難し。実際にこれで良い作品を作りあげるには、かなりの腕前が要求されると思います。まあ実際、どんな話であれ良い作品を作るには技量が必要なのですが。

 鈍感主人公だけで長々と語ってしまいましたが、今回一番伝えたかったポイントは、「どんなに一人一人のキャラクターを作りこんでいても、その関係性まで考慮できていなければ意味がない」ということです。
 散々偉そうなことを言ったあとにこんなこと言うのも何ですが、私自身そこまで人間関係を熟慮した作品を書けている自信はないんですよね……(汗)
 でもまあ、いつかは鈍感じゃないラブコメ主人公を書いてみるのもいいかなあと、この記事を書きながら思いました。

2014年6月16日月曜日

登場人物を死なせるときに気をつけたいこと

 つい先日、「不幸な出来事を書くときに気をつけたいこと」という記事をブログに投稿しました。今回は、その続きのような記事です。



 私は以前、こんな話を耳にしました。
 とある小学校の、とある学級では、クラス全体でリレー小説をしている。基本的に何を書いてもいいが、一つだけしてはいけないことがある。  それは、「登場人物を死なせないこと」。

 ちなみにこの取り決め、クラスの担任の先生が決めたそうです。
 この話を聞いたときに私が思ったことは、「クラスでリレー小説とかしたくないなあ」でした。「死なせない」取り決めとか、ぶっちゃけどうでも良かったです。
 とはいえ、今回は登場人物の死についての話をする予定なので、そちらを掘り下げていきましょう。

 先の話で「登場人物を死なせない」取り決めがされた理由は、どうやら「嫌いなクラスメイトが登場させた嫌いなキャラクターを死なせないため」だったようです。クラスの空気が悪くなることを恐れたんですね。

 まあ「死なせ」られなくても、そのリレー小説を利用した嫌がらせはあったんじゃないかと思います。クラスでリレー小説なんて、悪い結果しか想像できません。そのクラスがみんな本好きで、みんな仲良しなら話は別ですが、そんなことはなかったでしょうし。

 しかしその一方で、私は、その取り決め自体は悪くなかっただろうと思います。「死」という分野は、小学生のリレー小説で軽々しく取り扱っていいものではありませんから。

 「死」は、この世界の多くの人が、最も不幸なことだと捉えている事象です。
 「死ぬより辛い」とか「死んだほうがマシ」という言葉も、死が最上級に不幸なことだからこそ出る言葉です。それに「死んだほうがマシ」と言った人が現実的な死に直面すれば、おそらく大半の人は「死ぬよりはマシだった」と思うでしょう。

 それだけ不幸な出来事だからこそ、多くの物語でも「死」を取り扱っています。かくいう私も、これまでに書いた物語の中で、人を9人と猫を1匹死なせました。

 もちろん軽々に死なせたつもりはありません。ありませんが、やはり……

 私は、人の死がどういうものなのか、まだよくわかりません。医師のロス先生が書かれた「死ぬ瞬間」は知っていますが、それを真に理解できているかと言うと、理解できていないように思います。

 人が自分の死を知ったとき、何を思うのか。自分の親しい人が知ったときの悲しみは、どれほどのものなのか。それが私には、わかりません。

 私が物語の中で人を死なせるとき、大抵はその死に密接した、伏線を引いています。つまり、どんでん返しです。
 死ぬと同時に大きなどんでん返しがあれば、読者はそのどんでん返しに対する感動と、死に対する情動を混同します。それによって、深い作品だったと思わせています。

 意識して、したことではありません。良い作品を作ろうと思うと、自然とそうなっていたんです。そのことに気づいたのも、最近のことです。

「人の死に正面から向き合った作品を、私はまだ書いたことがない」

 伏線の回収に夢中で、気づけませんでした。あるいは、登場人物をわざと死に鈍い性格にすることで、無意識に避けていたのでしょうか。

 この前、死にショックを受ける主人公を書いたとき、その描写の薄っぺらさに愕然としました。今までなら見逃していたかもしれないその薄っぺらさにやっと気づけたのは、その少し前に人が死ぬ作品を読んでいたからだと思います。

 何度も書き直しました。それでも、納得の行くものにはなりませんでした。

「私は、人が死ぬということを何もわかっていない」

 人が死ぬということは、本当ならそれだけでも物語足り得るほどの、大きな出来事なんです。どんでん返しなんて要らないんです。でも私は、それで人を感動させられる自信はありません。

 どうしようもないことですし、それが私、泉野戒の作風なんだと言えばそれで済むことなのですが……

 それなら私は、私の作風は、人の死に正面から向き合ったものでありたいと思います。

 きっと私は、これからも、小説の中で何人もの人を死なせると思います。「死」を上手く書けないから「死」を書かないという選択肢は、私にはありません。それは向き合っていることにはなりませんし、そもそも自分の作品に縛りをつけるつもりは、私には毛頭ありません。

 私がすることは、私が書く「死」を、少しでも現実のそれに近づけることだけです。そしてそれこそが、私が作家として成長する一歩になると思っています。

2014年6月15日日曜日

不幸な出来事を物語として書くときに気をつけたいこと

 不幸な物語を書くときは、楽しい物語を書くときよりも深く考えて書かないといけないと、私は思っています。
 何を考えるのかと言えば、それは当然、その物語が誰かを不幸にしてしまわないか、ということです。

 ここで前もって言っておきたいのですが、私は別に「不幸な物語を書いてはいけない」とは考えていません。むしろある程度の不幸な出来事がないと、物語は成り立たないと思っています。
 現に私が何か新しい物語を書こうとするとき、必ずどこかに不幸な出来事を入れるように心がけています。ずっと楽しいことだけが続く物語というのは、例えそれが短編であれ、どうにも据わりの悪い物語となってしまい、私には納得ができません。
 辛いことがあるからこそ、読者を飽きさせず、物語の世界へと引き込むことができるんです。

 しかしこうやって自分を正当化してしまうと、たまに忘れることがあります。その不幸を、現実に味わった人がいるということを、です。
 これを忘れてしまうと、物語はただの毒になります。そして自分は、甘い毒をたくさんの人に飲ませて害を為す、ただの悪人になってしまいます。
 物語は、人を幸せにするべきものだと思っています。人生を変える、なんて大袈裟なことは言いませんけど、一娯楽として、人に害を与えるものではいけないと思います(購入費用や時間の浪費は別として、ですが)。

 不幸な出来事を書くときはまず、その不幸を現実的なものとして受け止めることが、必要不可欠だと思います。
 ただ、これができたとしても、実際にその「不幸」を目にしたことがなければ、なかなかわからないものです。どんな表現なら相手を傷つけないか、なんて。

 そこで私が思いついたのは――思いついたなんて言えるほどに画期的な方法ではないですが――自分の不幸に置きかえて考える、という方法です。

 例えば私の場合、数年前まで胃潰瘍に悩まされていました。今でこそ薬の力で完治していますが、その頃は立っていても寝ていてもお腹が痛くて、ついには逆立ちをしてしまうぐらいに酷かったんです(大真面目です)。
 そんな私からして、胃潰瘍がフィクションの中で使われていたらどう思うか――そもそも、胃潰瘍の話なんて地味すぎて誰も書かないのでしょうけど、もしあったらと想像して考えてみます。

 もしも胃潰瘍がフィクションの中で使われていた場合、それが侮蔑的なイメージで使われていたら……
 書いている最中に思い出しましたけど、「ちびまる子ちゃん」で、そんなキャラがいたような気がします。確か、山根くんだったかな?
 私の曖昧な記憶が正しければ、山根くんというキャラクターはとてもほっそりしていて、辛いことや心配事があるとすぐに「お腹がいたいよー」と言って苦しそうにするキャラクターだったと思います。あれを見ているときは胃潰瘍になる前でしたので何とも思いませんでしたが、今はすごく親近感を覚えます。

 基本的に作中での彼の胃潰瘍(病名は出ていなかったかもしれませんが、ストレスでお腹が痛むのはたぶん胃潰瘍です)は、笑い事扱いだったと思います。もちろんまるちゃんや他のクラスメイトが山根くんを見て笑っていた、ということではありませんが、作品全体の雰囲気として、笑い事として扱われていたように思います。

 当たり前です。「ちびまる子ちゃん」なんですから。そこで山根くんの胃潰瘍に対する悩みをシリアスに取り上げてどうするんですか。そんなことしたら読者はドン引きですよ。
 だからあれは、あれで良かったんです。むしろ苦しんでる山根くんに対する周りの対応とか、「ああ確かにこんな感じだなあ」と思わせるくらいに、リアルに描かれています。そういうあたり、さすがは名作です。

 ただこれは、作者のことを慮った上での意見です。「私は作る人の都合も理解しているんですよー」という、如何にもワナビーらしい意見です。
 ここからは、そういう部分はさっぱりすっぱり取り払って、ただの胃潰瘍経験者という視点で話したいと思います。

 正直、いい気持ちはしません。

 胃潰瘍って、本当に辛いんです。お酒、タバコ、コーヒー、紅茶などの嗜好品は全部ダメですし、塩分や香辛料も控えないといけません。酷いときには食べ物も食べられず、水も飲めないんです。
 布団の上で痛みにのたうち回って、その内にそうする元気すらなくなって、身体に力が入らなくなって――でも痛みはずっとあるんです。灼けるような痛みが。
 夜もろくに眠れません。痛くて目が覚めるんです。だからいつも寝不足で、昼間にウトウトして周りの人に白い目で見られたり……。

 「ちびまる子ちゃん」を見た人は、きっとこう思うでしょう。「神経質すぎるから、胃が痛くなるんだ」って。そしてそれが大部分は正しいために、余計つらく感じます。

 私は確かに神経質で、それは否定できません。でもだからって、胃潰瘍になって当たり前とか、お前が悪いなんて言い方をされるのは業腹です。
 いえ、現実に私が悪いんですけど、それでももう少し優しくしてほしいなあというのが正直なところです。

 そう考えると、「ちびまる子ちゃん」は胃潰瘍の人を不幸にしている、という言い方もできるかもしれませんね。
 だからと言って「ちびまる子ちゃん」を責めるつもりは私には毛頭ないというのは、先に述べた通りです。仮に私に、「ちびまる子ちゃん」を書けるだけの技能があったとすれば、私は書いたでしょう。それによって胃潰瘍の人を不快にさせるとしても、です。

 しかしできるなら、誰も不幸にしない物語を書きたいと思います。その理想を求めるために、ここではその理想をはっきりとした形にしておきたいと思います。

 胃潰瘍がどのように取り上げられていれば、私は不快に思わなかったのか。

 想像でしか語ることはできませんが、きっと、胃潰瘍の人の苦しみがしっかりと表現されていれば、私はまったく不快に思わない――むしろ、良い作品として心に残ると思います。
 胃潰瘍の人が幸せにならないとダメ、というのではありません。胃潰瘍の人が作中でどんなに不幸な目に遭っても、そのキャラクターを作者が愛して、思いやっていると伝わってくれば、それで満足できると思うんです。

 そう考えると、「ちびまる子ちゃん」の作者さんも、山根くんをそれなりに思いやっていたように感じますね。
 ただ、山根くんは端役で、しかもあれはマンガだったから、それが伝わってきにくいのかもしれません。だから私は、漫画よりも小説のほうが好きなんです。

 小説が漫画に勝る部分は、正にそれだと思います。心をもっとも伝えやすいのは、漫画よりも、絵画よりも、音楽よりも、小説だと思います。
 そんな小説だからこそ気をつけないといけないと思うのは、端役(モブキャラ)の扱い方です。

 ここまで長々と語ってきて今更こんなことを言うのもなんですが、メインキャラクターの不幸について何も考えずに書く作者というのは、そんなにいないと思うんです。その不幸を実際に体験したらどうなるか考えるでしょうし、わからなければ調べもするでしょう。

 しかしモブキャラとなると、不幸な目に遭わせてもそのまま流してしまうことがままあります。大多数の読者のことを考えれば、それは正しいことなのですが――正しいからといって、開き直るのは間違いです。

 誰かを幸せにする分、誰かを不幸にしてしまう。そんな世知辛い世の中でも、誰も不幸にしない物語の在り方を、いつまでも模索していきたいものです。



 本当は、今回の記事では登場人物の死について書きたかったのですが、思いの外長くなってしまったので今日はここまでとさせていただきます。
 読んでくださって、ありがとうございました。