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2014年6月15日日曜日

不幸な出来事を物語として書くときに気をつけたいこと

 不幸な物語を書くときは、楽しい物語を書くときよりも深く考えて書かないといけないと、私は思っています。
 何を考えるのかと言えば、それは当然、その物語が誰かを不幸にしてしまわないか、ということです。

 ここで前もって言っておきたいのですが、私は別に「不幸な物語を書いてはいけない」とは考えていません。むしろある程度の不幸な出来事がないと、物語は成り立たないと思っています。
 現に私が何か新しい物語を書こうとするとき、必ずどこかに不幸な出来事を入れるように心がけています。ずっと楽しいことだけが続く物語というのは、例えそれが短編であれ、どうにも据わりの悪い物語となってしまい、私には納得ができません。
 辛いことがあるからこそ、読者を飽きさせず、物語の世界へと引き込むことができるんです。

 しかしこうやって自分を正当化してしまうと、たまに忘れることがあります。その不幸を、現実に味わった人がいるということを、です。
 これを忘れてしまうと、物語はただの毒になります。そして自分は、甘い毒をたくさんの人に飲ませて害を為す、ただの悪人になってしまいます。
 物語は、人を幸せにするべきものだと思っています。人生を変える、なんて大袈裟なことは言いませんけど、一娯楽として、人に害を与えるものではいけないと思います(購入費用や時間の浪費は別として、ですが)。

 不幸な出来事を書くときはまず、その不幸を現実的なものとして受け止めることが、必要不可欠だと思います。
 ただ、これができたとしても、実際にその「不幸」を目にしたことがなければ、なかなかわからないものです。どんな表現なら相手を傷つけないか、なんて。

 そこで私が思いついたのは――思いついたなんて言えるほどに画期的な方法ではないですが――自分の不幸に置きかえて考える、という方法です。

 例えば私の場合、数年前まで胃潰瘍に悩まされていました。今でこそ薬の力で完治していますが、その頃は立っていても寝ていてもお腹が痛くて、ついには逆立ちをしてしまうぐらいに酷かったんです(大真面目です)。
 そんな私からして、胃潰瘍がフィクションの中で使われていたらどう思うか――そもそも、胃潰瘍の話なんて地味すぎて誰も書かないのでしょうけど、もしあったらと想像して考えてみます。

 もしも胃潰瘍がフィクションの中で使われていた場合、それが侮蔑的なイメージで使われていたら……
 書いている最中に思い出しましたけど、「ちびまる子ちゃん」で、そんなキャラがいたような気がします。確か、山根くんだったかな?
 私の曖昧な記憶が正しければ、山根くんというキャラクターはとてもほっそりしていて、辛いことや心配事があるとすぐに「お腹がいたいよー」と言って苦しそうにするキャラクターだったと思います。あれを見ているときは胃潰瘍になる前でしたので何とも思いませんでしたが、今はすごく親近感を覚えます。

 基本的に作中での彼の胃潰瘍(病名は出ていなかったかもしれませんが、ストレスでお腹が痛むのはたぶん胃潰瘍です)は、笑い事扱いだったと思います。もちろんまるちゃんや他のクラスメイトが山根くんを見て笑っていた、ということではありませんが、作品全体の雰囲気として、笑い事として扱われていたように思います。

 当たり前です。「ちびまる子ちゃん」なんですから。そこで山根くんの胃潰瘍に対する悩みをシリアスに取り上げてどうするんですか。そんなことしたら読者はドン引きですよ。
 だからあれは、あれで良かったんです。むしろ苦しんでる山根くんに対する周りの対応とか、「ああ確かにこんな感じだなあ」と思わせるくらいに、リアルに描かれています。そういうあたり、さすがは名作です。

 ただこれは、作者のことを慮った上での意見です。「私は作る人の都合も理解しているんですよー」という、如何にもワナビーらしい意見です。
 ここからは、そういう部分はさっぱりすっぱり取り払って、ただの胃潰瘍経験者という視点で話したいと思います。

 正直、いい気持ちはしません。

 胃潰瘍って、本当に辛いんです。お酒、タバコ、コーヒー、紅茶などの嗜好品は全部ダメですし、塩分や香辛料も控えないといけません。酷いときには食べ物も食べられず、水も飲めないんです。
 布団の上で痛みにのたうち回って、その内にそうする元気すらなくなって、身体に力が入らなくなって――でも痛みはずっとあるんです。灼けるような痛みが。
 夜もろくに眠れません。痛くて目が覚めるんです。だからいつも寝不足で、昼間にウトウトして周りの人に白い目で見られたり……。

 「ちびまる子ちゃん」を見た人は、きっとこう思うでしょう。「神経質すぎるから、胃が痛くなるんだ」って。そしてそれが大部分は正しいために、余計つらく感じます。

 私は確かに神経質で、それは否定できません。でもだからって、胃潰瘍になって当たり前とか、お前が悪いなんて言い方をされるのは業腹です。
 いえ、現実に私が悪いんですけど、それでももう少し優しくしてほしいなあというのが正直なところです。

 そう考えると、「ちびまる子ちゃん」は胃潰瘍の人を不幸にしている、という言い方もできるかもしれませんね。
 だからと言って「ちびまる子ちゃん」を責めるつもりは私には毛頭ないというのは、先に述べた通りです。仮に私に、「ちびまる子ちゃん」を書けるだけの技能があったとすれば、私は書いたでしょう。それによって胃潰瘍の人を不快にさせるとしても、です。

 しかしできるなら、誰も不幸にしない物語を書きたいと思います。その理想を求めるために、ここではその理想をはっきりとした形にしておきたいと思います。

 胃潰瘍がどのように取り上げられていれば、私は不快に思わなかったのか。

 想像でしか語ることはできませんが、きっと、胃潰瘍の人の苦しみがしっかりと表現されていれば、私はまったく不快に思わない――むしろ、良い作品として心に残ると思います。
 胃潰瘍の人が幸せにならないとダメ、というのではありません。胃潰瘍の人が作中でどんなに不幸な目に遭っても、そのキャラクターを作者が愛して、思いやっていると伝わってくれば、それで満足できると思うんです。

 そう考えると、「ちびまる子ちゃん」の作者さんも、山根くんをそれなりに思いやっていたように感じますね。
 ただ、山根くんは端役で、しかもあれはマンガだったから、それが伝わってきにくいのかもしれません。だから私は、漫画よりも小説のほうが好きなんです。

 小説が漫画に勝る部分は、正にそれだと思います。心をもっとも伝えやすいのは、漫画よりも、絵画よりも、音楽よりも、小説だと思います。
 そんな小説だからこそ気をつけないといけないと思うのは、端役(モブキャラ)の扱い方です。

 ここまで長々と語ってきて今更こんなことを言うのもなんですが、メインキャラクターの不幸について何も考えずに書く作者というのは、そんなにいないと思うんです。その不幸を実際に体験したらどうなるか考えるでしょうし、わからなければ調べもするでしょう。

 しかしモブキャラとなると、不幸な目に遭わせてもそのまま流してしまうことがままあります。大多数の読者のことを考えれば、それは正しいことなのですが――正しいからといって、開き直るのは間違いです。

 誰かを幸せにする分、誰かを不幸にしてしまう。そんな世知辛い世の中でも、誰も不幸にしない物語の在り方を、いつまでも模索していきたいものです。



 本当は、今回の記事では登場人物の死について書きたかったのですが、思いの外長くなってしまったので今日はここまでとさせていただきます。
 読んでくださって、ありがとうございました。

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